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吉田松陰先生をお祀りする東京都世田谷区の神社/合格祈願、開運厄除け、家内安全、お宮参り、七五三参り、自動車祓、他、各種ご祈願を受付しております。

お問い合わせは TEL.03-3421-4834

〒154-0023 東京都世田谷区若林4-35-1

松陰神社の由緒history



御祭神(吉田松陰先生)について

吉田松陰先生肖像

吉田松陰先生は,天保元年(1830)8月4日長州藩(現在の山口県)萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれました。松陰というのは号で、名前は矩方、通称寅次郎。幼い頃は虎之助と呼ばれていました。

杉家は貧しい家でありましたが、勉強家であり勤勉な武士の父の下、幼い頃は兄梅太郎と共に「論語」「孟子」などの中国の古典を学びました。

松陰先生には他家を継いで姓が違いますが吉田大助、玉木文之進という2人の叔父がいました。吉田家は山鹿流兵学師範を務める家柄で代々藩主に講義をしたり、明倫館(藩の学校)で藩士に講義をしていました。しかし大助は29歳で亡くなってしまい松陰先生が6歳の時、文之進を後見人として吉田家を継ぐこととなりました。松陰先生は文之進の厳しい教育のもとめきめき力をつけます。天保11年松陰先生11才の時には、藩主であった毛利慶親公に武教全書を講義しました。その後もさらに学問を進め弘化4年(1847)18歳で林真人より免許皆伝を受け、22歳の時には三重傳という山鹿流兵学でもっとも高い免許を受けます。

松陰先生の学問は、家学だけに留まりませんでした。中国では阿片戦争がおこり日本の周囲にも外国の船が来るようになっている時代です。松陰先生は日本を守る為にはまず西洋の文明や兵学を学ばねばと、嘉永3年(1850)には約4ヶ月間、九州は平戸に遊学し陽明学者の葉山佐内と親交を結びます。さらに見聞を広める為、嘉永4年には藩命による江戸留学が実現し佐久間象山に師事しました。

その頃、東北地方に外国艦船がしばしば現れていたことから、松陰先生は江戸から東北へ宮部鼎蔵と嘉永5年の春に調査旅行をする予定を立てていました。しかし、友人の江ばた五郎から仇討ちをしたいので一緒に行ってくれないかと頼まれた松陰先生達は大変感動し、嘉永4年の12月15日を出発の日と決めました。当時、国内旅行の時には過書(藩からの身分証明書)を持っていなければならなかったのですが、それを待っていては出発の日に間に合わず松陰先生は友人との約束を守る為、過書を持たず出発してしまいます。結局、仇討ちは仇が病死であったため実現しませんでした。松陰先生は東北各地を視察して周り、翌年の4月に東北遊学から江戸にもどって来た際に過書をもたず出発した罪で身分をとられ浪人となってしまいます。

藩主の毛利敬親は松陰先生が浪人となってしまったことを大変残念に思い、特別の計らいで諸国遊学10年間の許可をだしました。嘉永6年に松陰先生は再び江戸に向いました。江戸への道中、諸国の有名な学者をたずね歩き勉学に励みました。そして5月に江戸へ到着しました。その頃ちょうど浦賀にペリーの黒船が入港し松陰先生も実際に黒船を目で確かめることになります。阿片戦争を知っていた松陰先生は日本が植民地にされるのではないかと心配しより一層、西洋兵学などを勉強しました。

松陰先生は西洋兵学を学べば学ぶほど、本や人から得る知識だけでなく実際に目で確かめ学びたいと熱望しました。鎖国制度の時代で海外への渡航は固く禁止されていましたが、嘉永6年、和親通商を求める、ロシア使節プチャーチンの船が長崎へ入港した際、松陰先生は乗船を計画しました。しかし、江戸を発って長崎に到着した時すでに船は出港した後でした。その翌年、ペリーが艦隊を引き連れて日本に再度やってきました。松陰先生は弟子の金子重輔と共に下田沖に停泊中であったペリーの軍艦にむけて、夜小船で漕ぎ出しました。軍艦に乗船し米国に連れて行ってもらえるよう懇願しましたが、認めてもらえず松陰先生は翌朝自首し海外渡航を計画した罪で江戸伝馬町の獄に投獄されてしまいます。

松陰先生は安政元年12月、萩に戻され野山獄に投獄されました。野山獄には約1年2ヶ月投獄されていましたが、自分が投獄されていることよりも、日本を海外の列強からどのように守るかが松陰先生最大の問題でしたから、その間にも約600冊の本を読み解決方法を模索しました。また、同じ獄に投獄されている他の人に呼びかけ、俳句や漢詩、書道などそれぞれの得意分野を皆に教える勉強会を開きました。松陰もまた、皆に論語や孟子などを教えました。そういった勉強会を開くうち投獄されていた他の人も生きる希望を見出し獄の中は次第に明るい雰囲気になっていったそうです。

安政2年、松陰先生は杉家に戻ることを許されました。杉家でも松陰先生は勉学に励み、家族に孟子などの講義を続けました。するとその講義を聴こうとする若者達がしだいに集まりはじめました。そして以前に叔父の玉木文之進が開いた「松下村塾」という塾の名をつけた塾を開き、塾主を務めました。松下村塾では、身分の上下や職業などは関係なく、松陰先生は若者と共に畑仕事などをしながらそれぞれの長所を見つけ伸ばすという教育を行いました。松下村塾は僅か2年余の間しか開塾していませんでしたが、伊藤博文、野村靖、山縣有朋など、後の明治維新を成し遂げた数多くの若者達が巣立っていきました。

安政5年井伊直弼が大老となり。六月日米通商条約に調印します。そしてこれに反対する人々を投獄し罰していきました。安政の大獄です。松陰先生も日本の安全が脅かされると考え、藩主や塾生同志等に時局に対する意見書を送ります。直接行動として、老中暗殺も計画しました。しかしこの松陰先生の考えは幕府を脅かすものと考えられ、塾は閉塾、松陰は再び投獄されてしまいます。そして安政6年5月萩野山の獄を発ち江戸桜田の藩邸に護送されることとなります。

萩から江戸へ護送される際、萩の町が見納めとなる坂の上での句
  • かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな

松陰先生は幕府の尋問を受け伝馬町の獄に入ります。松陰先生は、誠の心をもって話をすれば自分の考えも幕府はきっと理解してくれると自分の考えを述べました。しかしその思いは届きませんでした。松陰先生は自らが死刑になることを察し、父、叔父、兄宛てに「永訣書」を書き、弟子達に「留魂録」を書きました。安政6年10月27日朝、評定所にて罪状の申し渡しがあり、その後伝馬町獄舎で松陰先生は処刑されました。享年30歳でありました。

辞世の句
  • 親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん
  • 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
絶命の詩
  • 我今為国死 死不背君親 悠々天地事 鑑照在明神
  • (我いま国の為に死す死して君親に背かず悠々天地の事鑑照明神に在り)

10月29日弟子たちにより小塚原回向院下屋敷常行庵に埋葬されます。

松陰先生の教育は体全体からあふれる人間愛と祖国愛、時代の流れに対する的確な把握がありました。そして、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります。




鎮座の由来

松陰先生御墓

吉田松陰先生は安政6年10月27日、安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文、等によってこの世田谷若林の地に改葬されました。神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで大夫山と呼ばれていたそうです。

明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相謀り、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り忠魂の鎮座するところとなりました。今日の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものです。近年は学問の神として崇敬を集め参拝者は全国各地に及んでいます。




吉田松陰先生略年表

年号 年齢 月日 重 要 事 項 主な著書
天保元年
(1830)
1才 8月4日 長門の国、萩松本村護国山の麓団子岩に藩士杉百合之助常道の七人兄弟の次男として生れる。母滝。幼名虎之助、後大次郎また寅次郎に改める。名は矩方、字は義卿、又は子義。松陰、二十一回猛士と号す。  
天保5年
(1834)
5才   代々毛利家、山鹿流兵学師範の吉田家、吉田大助賢良の仮養子となる。  
天保6年
(1835)
6才 4月3日 大助没す。  
6月20日 吉田家を嗣ぐ。松陰幼少にて藩命により林真人、玉木文之進(松陰の叔父)等が家学教授代理となる。
天保9年
(1838)
9才 1月 始めて家学教授見習いとして藩校明倫館に登る。  
天保10年
(1840)
10才 11月 始めて明倫館にて兵学を教授する。林真人等、後見人となる。  
天保11年
(1840)
11才   藩主慶親公御前にて始めて「武教全書戦法篇」を講義する。藩主見事な講義に驚き師を尋ねる。玉木文之進と答える。  
天保12年
(1841)
12才   馬術を波多野源左衛門に学ぶ。  
天保13年
(1842)
13才 8月 玉木文之進、家学後見人に命ぜられる。玉木文之進、松下村塾を開く。  
天保14年
(1843)
14才 9月 父百合之助、百人中間頭兼盗賊改方に任ぜられる。玉木文之進、後見人を免ぜられる。  
弘化元年
(1844)
15才 9月7日 藩主御前にて「孫子虚実篇」を講義する。藩主感激して、松陰に七書直解を賜う。  
弘化2年
(1845)
16才   長沼流兵学を学ぶ。欧米列強が東洋諸国を侵略し、その害が日本にも及ぶ事に危機感を抱く。以後自ら天下の事を考える。松下村塾(塾主、玉木)で勉学に励む。  
弘化3年
(1846
17才 林真人宅にて火事に遭い書籍衣服を焼失する。 外夷小記
3月3日 山田亦介より長沼流兵学の免許を受け、佐藤寛作に「兵要録」を、飯田猪之助に「西洋陣法」等を学ぶ。深く外患を憂て、食を忘れるほど海防を勉学する。
弘化4年
(1847)
18才 2月2日 藩主、松陰並びに門人の家学講義と作図を見る。  
9月 「平内府論」を作る。
10月27日 林真人より大星目録の免許を受ける。
嘉永元年
(1848)
19才 1月 組並の諸役に就く。家学の後見が解かれ独立の師範となる。  
6月4日 藩主、松陰並びに門人の家学をみる。
10月4日 明倫館再興の意見書を出す。
嘉永2年
(1849)
20才 2月 明倫館新築。藩主より賞服金を賜う。「兵学寮定書」、「門弟等級次第」を定める。 廻浦紀略
稽古事控
明倫館御再建控
3月17日 「水陸戦略」を著し、外夷御手当方に提出する。御内用掛に任じられる。
6月 藩命により須佐、赤間関海岸等を視察する。
10月10日 門人を率いて、羽賀台で演習を行う。
10月11日 幕府に対策一通を提出。
嘉永3年
(1850)
21才 8月20日 「武教全書守城篇」、「篭城の大将心定め」を講義。藩主感動する。 西遊日記
末忍焚稿
公事記
25日 九州に遊学。小倉、長崎、平戸等をまわる。遊学中、宮部鼎蔵他多くの文武知名の士を訪ね新書を読み、海外の事情を多く得る。旅行中は義卿の字を使用する。
12月 萩に帰る。
嘉永4年
(1851)
22才 1月 林真人より三重傳の免許を受ける。 武教全書講章
末焚稿
費用録
辛亥日記
東遊日記
辛亥歳雑抄
15日 藩主に山鹿流兵学の皆伝を授け、賞をうける。
3月5日 兵学研究の為、藩主に従い江戸に行く。
4月9日 江戸に到着。宮部鼎蔵他多くの人と交友を持ち切磋琢磨する。
6月13日 宮部と共に鎌倉に行く。叔父の僧竹院を訪ねる。後、相州、房州の沿岸を調査。
7月23日 東北遊学の許可おりる。
12月14日 故あり遊学許可書を待たずして、藩邸を亡命して江戸を出発。途中、名を松野他三郎とする。
19日 水戸にて永井政介宅に泊る。
24日 宮部他、松陰に合流する。
嘉永5年
(1852)
23才 1月2日 水戸に帰る。 東北遊日記
睡余事録
猛省録
屏居読書抄
業余漫録
雑録
辛亥筆記
4日 銚子へ向かう。途中、鹿島神社参拝。
11日 水戸に帰る。水戸の学風に感激する。
20日 白河、会津を経て新潟出雲崎より佐渡に渡る。順徳天皇陵を拝して詩を作る。新潟にもどり秋田、青森、盛岡、仙台を巡る。
4月5日 江戸に帰り、鳥山新三郎宅に逗留する。
10日 藩邸に入り待罪書を提出。帰国の命令が出る。
18日 江戸を出発。
5月12日 萩に帰る。杉家にて謹慎命を待つ。盛んに国史、國典を読む。
11月 この頃より松陰の号を用いる。
12月9日 亡命の罪により士籍を削られ、父の育みとなる。通称松次郎に改める。藩主、松陰の亡命を惜しみ十年間諸国遊学を許可する
嘉永6年
(1853)
24才 1月16日 幕府松陰の遊学を許す。名を寅次郎と改める。 蒋及私言
癸丑遊歴目録
長崎紀行
東征稿
26日 萩を発ち讃岐、大和を経て、伊勢にて神宮を拝礼。後、信濃、上野を巡る
5月24日 江戸に到着。多くの知名の士と交友をもつ。
6月4日 米艦、浦賀に来航を聞き直ちに行く。佐久間象山等と連日時事を討議する。
9月13日 鎌倉に叔父を訪ねる。
18日 ロシア軍艦に乗船を企てようと長崎に向かう。
10月1日 京都に到着。
3日 大阪より海路にて豊後、熊野を経て長崎をめざす。
27日 長崎に到着。既 に露艦は出港。
11月13日 萩に帰着。
26日 宮部等と共に江戸に向かう。
12月27日 江戸に到着。沿道、知名の士多数を訪ね交友をもつ。
安政元年
(1854)
25才 1月7日 相州へ向かう。「海戦策」を著し藩主へ提出。 幽囚録
3月5日 金子重輔と共に米艦に乗船を計画。神奈川を経て、下田に至る。二人は姓名を変え、松陰は瓜中万二、金子は市木公太と称した。
28日 早旦、艦に登るも渡航失敗。自首する。
4月15日 江戸伝馬町獄に拘置。
9月18日 幕府、松陰の罪を断じて藩邸に幽閉する。
23日 檻篭により江戸を出発。
10月24日 萩到着。松陰は野山獄に、金子は岩倉獄に入る。   
11月2日 二十一回猛士の説を作る。佐久間象山他連座して処罰される。兄梅太郎、父百合之助、叔父文之進共に謹慎。  
安政2年
(1855)
26才 1月11日 金子重輔、獄中にて病死。松陰深く悲しむ。士規七則を作る。 野山獄文稿
野山雑著
獄中俳諧
抄制度通
賞月雅草
冤魂慰草
回顧録
清国威豊乱記
書物目録
3月 僧月性、萩へ。松陰と文通する。
4月12日 獄囚の為に孟子を講義。獄中穏やかとなる。
12月15日 赦され杉家に帰る。外界との接触は禁止だったが子弟と共に勉学に勤しむ。
安政3年
(1856)
27才 4月15日 「七生説」を作り、七生報国の信念を披露する。 講孟余話
武教全書講録
丙辰幽室文稿
宋元明鑑紀奉使抄
叢棘随筆
明倫抄
丙辰日記
借本録
丙辰歳晩大会計
8月中旬 子弟の為に「武教全書」を講義。松下村塾を為す基となる。尊王攘夷の問題を研究。
9月4日 外叔久保氏の為に松下村塾記を作り、久保邸隣家にて子弟を教授、松下村塾の名を使用する。
10月14日 野山獄の囚人多数、松陰の尽力により赦免される。
12月18日 梅田雲濱と会見する。
安政4年
(1857)
28才 4月 松陰の幽囚室の門弟、松下村塾の門弟共に幽囚室にて学ぶ。 丁巳幽室文稿
吉田語略
討賊始末
外蕃通略
外史彙材
二十一回叢書
吉日録
野山獄読書記
丁巳日乗
11月5日 杉家内の小屋を補修。この日を以って開塾、塾生益々多くなる。
安政5年
(1858)
29才 1月6日 「狂夫之言」を作る。 戊午幽室文稿
幽窓随筆
読綱鑑録
急務四條
西洋歩兵論
松陰詩稿
松下村塾食料月計
松下村塾食事人名控
2月19日 竹島開拓の意見書を桂小五郎に送り謀る。
3月11日 松下村塾、増築。
4月12日 久坂より勅諭煥発を知り時事に関する意見を門人に与え、激励。「対策一道」を作る。
5月12日 幕府の勅答を聞く。直に「愚論」、「アメリカ人取扱方」の議二文を作る。「対策」、「愚論」を梁川星巌に贈り天覧に達する。
6月15日 藩主、江戸より帰国。「狂夫之言」を見て上書建言あり。松陰感激し益々研究に励む。
7月13日 大義を議論する。松下村塾、最盛期。その名、世に知られる。
8月1日 周防国戸田村の壮士、銃陣を学ぶ。
18日 大井濱にて流儀の演習。
9月9日 水野暗殺の策を江戸松浦に送る。「時勢論」を作り大原三位に長門下向をすすめる。
11月6日 同士十七名と血盟を結び、老中間部暗殺を企てる。藩府、驚き松陰を幽閉投獄する。
安政6年
(1859)
30才 1月15日 諸国の同士、松陰のもとを訪れ「要駕策」を練る。 己未文稿
李氏焚書抄
李氏続蔵書抄
東坡策批評
鴻鵠志孫子評註
坐獄目録
照顔録
東行前日記
汪文抄
読余雑抄
縛吾集
涙松集
留魂録
24日 時事を憤慨して食を断つが、父母に諌められ食をとる。
3月19日 「要駕策」上下巻できる。松陰過激となり門人に敬遠されがちになる。
4月19日 幕府より江戸護送の命令下る。
5月24日 杉家に帰り、父母親戚に訣別する。
25日 江戸に護送される。
6月24日 江戸藩邸に入る。
7月9日 幕吏の尋問を受け伝馬町の獄に入る。
9月5日 尋問を受ける。
10月5日 尋問を受ける。
16日 口書読聞かせあり。
20日 父、叔父、兄宛てに永訣書を認める。
26日 「留魂録」を作る。
27日 評定所にて罪状申渡しあり。伝馬町獄舎にて直ちに死刑に処せられる。
29日 尾寺、飯田、桂、伊藤等遺骸受け取りに奔走する。小塚原回向院下屋敷常行庵に葬る。
文久3年
(1863)
1月5日 高杉晋作、伊藤利助、品川弥二郎、山尾庸三、白井小助、赤禰武人等主となりて荏原郡若林村に墓所を動かす。

松陰神社社殿全景

address info.神社所在地

松陰神社

〒154-0023
東京都世田谷区若林4-35-1
TEL.03-3421-4834
FAX.03-3418-7111
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