松陰先生他烈士墓所

松陰先生他烈士墓所

境内墓域には、吉田松陰先生の墓碑をはじめとして、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮、其の他烈士の墓碑があります。 文久三年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓(紅葉)の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所としました。同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年十一月、福原乙之進を埋葬。 禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰先生以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑を建立しました。 明治2年整武隊長官が鳥居より墓前に至る道に石を敷いて参拝に便ならしめ、かくして墓域は完成し、忠魂の鎮座することとなりました。


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松陰先生他烈士墓所

松陰先生他烈士墓所

吉田寅次郎藤原矩方(天保元年~安政6年)

吉田松陰先生墓碑<br>

長州藩士、号は松陰。年少より大義を唱え、松下村塾を主宰、明治維新の原動力となる有為の青年を多数輩出した。安政の大獄により刑死。小塚原回向院より改葬。享年30歳。

小林民部少輔(文化5年~安政6年)

鷹司家家士。尊皇の志篤く国事のことに奔走。主君を攘夷派に転換させるなどしたが、安政の大獄にて捕らえられ獄死。小塚原回向院より改葬。享年52歳。

頼三樹三郎某姓醇(文政8年~安政6年)

儒者、本姓は橘、頼山陽の三男。尊王の大義を唱え安政の大獄により刑死。小塚原回向院より改葬。享年35歳。

来原良蔵多々良盛功(文政12年~文久2年)

長州藩士。尊王攘夷を唱え横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を戒められ切腹。芝青松寺より改葬。享年34歳。

福原乙之進大江信冬(天保8年~文久3年)

長州藩士。討幕を策し、江戸刈谷藩邸にて古河藩兵に襲われ自刃。此の地に埋葬。享年27歳。

綿貫治良助(天保7年~元治元年)

諱は直秀、長州藩士。禁門の変により江戸長州藩邸没収の際幕吏と争い自刃。此の地に埋葬。享年29歳。

長州藩邸没収事件関係者慰霊碑

禁門の変の後、長州は各所の出先機関などが没収され、江戸藩邸も没収された。藩邸員は拘禁され、諸藩、諸家に預けられたが、多くは預け先で病死した。この事件で関連した犠牲者は防長回天史では51人となっている。碑には、48人の名前が刻まれているが、そのうち事件に関係し亡くなった方は45人。


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来原良蔵妻和田春子墓碑

来原良蔵妻和田春子墓碑

没後松陰先生墓域に埋葬。明治8年。


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子爵野村靖並びに夫人墓碑

子爵野村靖(天保13年~明治42年)

子爵野村靖並びに夫人墓碑

16歳の時松陰に師事、尊攘の事に奔走する。明治になり特命全権大使岩倉具視に随行して欧米各国を視察、帰朝して外務省に出仕。神奈川県令、逓信次官、枢密顧問官、フランス外交公使等を歴任し、第二次伊藤内閣内務大臣、第二次松方内閣逓信大臣を勤める。遺言により松陰先生墓域内に埋葬。享年68歳。 明治44年夫人を埋葬。


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中谷正亮源實之墓碑

中谷正亮源實之墓碑

長州藩士。松陰なきあと松下村塾を監し、義挙を画策したが、江戸にて病死。芝清岸院より改葬。享年35歳。


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長藩第四大隊戦死者招魂碑

長藩第四大隊戦死者招魂碑

長州藩第4大隊の戦士者招魂碑。明治37年桂太郎によって建立。桂太郎は慶応4年に長州藩第四大隊二番隊司令を命ぜられている。


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木戸孝允寄進の鳥居

木戸孝允寄進の鳥居

松陰先生墓域の入口に建てられている鳥居は松陰先生墓所の修復の際、木戸孝允によって奉納されたもの。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれている。


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徳川家奉納の水盤と石燈籠

徳川家奉納の水盤と石燈籠

禁門の変の後、長州征伐の際、幕府によって破壊された松陰先生墓所を明治元年、木戸孝允等が修復した。先生墓所前の葵紋のついた石燈籠(墓前前の内側の一対)と域内の水盤は墓所修復の挙を聞いた徳川氏から謝罪の意を込め奉納されたもの。(葵紋は、奉納当時金色であったと言われているが、現在は風化により紋は判別しにくくなっている。


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